演劇で食って生きたい人のためのブログ

演劇で食って生きたいけど、どうしたら良いの?実際に食えるの?実情は?などを紹介するブログ

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【演劇プロジェクト】新しいことをやることの難しさ

 現在、仲間(一人しかいない)と打ち合わせをしている段階なのですが、非常に煮詰まっています…

 

 僕らの強みは大手の劇団と違い、フットワークが軽いという1点なのですが、それだけでは差別化を図る上で具体的でもないし、差別化すら図れていない。

 

 そして、クレイジーさを入れようと考えると、既存のものがどれだけ効率的なものかがわかってくる。

 

 出尽くしている感が満載なのだ。

 

 演劇の歴史を振り返ると、神殿で神事を行うときに催された出し物が原点だが、そこから長い月日を経て、今に至るわけだが、その過程の中で様々な天才たちが頭から湯気が出るほど考えて、今の演劇が形成されたわけです。

 

 つまり、そこから逸脱して、差別化を図ろうとするとき、非常に難しいわけで視点を絞って考える必要が出てくるんですね。

 

 今の環境と昔の環境は大きく異なっていて、今の演劇界では「0→1」というよりは「1→100」という形のほうが主流のような気がします。

 

 「0→1」は新しいものを生み出す形式で、「1→100」は既存のものをアップグレードする形式だと思っていただきたい。

 

 たとえば、敬愛する小池修一郎先生の場合、宝塚という特殊な世界では演出兼脚本という形を取っているが、彼は「0→1」ではなく「1→100」という形の演出家だと思う。

 

 「エリザベート」や「ロミオとジュリエット」など潤色を手がけている小池先生は、演出家というより潤色家と言っても良いだろう。

 

 「エリザベート」に関して言うなら、東宝版と宝塚版で演出がまったく異なっているが、これは各媒体での特色を把握し、活かすのが天才的にうまいから小池先生は天才演出家だと言われる。

 

 宝塚の話ばかりで申し訳ないが、その逆を行くのが上田久美子先生だと思う。

 

 「星逢一夜」でデビューした上田先生は「0→1」のタイプだ。

 

 もちろん、様々な要素を取り入れているのだろうが、それはあくまで栄養素を取り入れているだけの話で、切り張りしているわけではない。

 

 宝塚でいうなら、小池先生タイプの演出家がたくさんいるが、ほとんどが小池先生の二番煎じ、三番煎じになってしまっている。

 

 しかし、これは批判ではない。

 

 実際に作品を作ろうとすると、少なからず影響を受け、煮詰まると二番煎じのようなことをしてしまいがちになる。

 

 ボクが宝塚の演出部の採用試験の中で提出した脚本では「ロベスピエールを善と悪に人物を分けて、善と悪が葛藤する」というストーリーを書いた。

 

 ロベスピエールを双子に見立て、善と悪の兄弟に分け、いつしか悪が力を増していくというもので、エンディングには善が悪をかばって、代わりに処刑されることで悪は改心するというものなのだが、これは兄弟愛的な要素も取り込んでいる。

 

 これはボクの中での性善説、性悪説に対しての結論だが、人間を一個の球体でたとえると、光を当てる部分によって見え方が違い、人間は全員どちらの面も所有しており、それが環境や人間関係などいろんな刺激に対して、呼応してどちらかの面が出てくるという考えから、この人は善!とか悪!とか断言するものではなく、もっと複雑なものだと主張したくて書いたものだ。

 

 これ自体、「ジキルとハイド」的な要素と「ドラゴンボール」のピッコロ大魔王の要素が入っていて、ただ話の舞台がフランス革命だっていうだけの話である。

 

 書いたときはなかなか面白いものが出来たと喜んでいたが、冷静に考えると上記のような感想にもなりかねない。

 

 大幅に話が逸れたが、少なくとも「1→100」という戦略でいくほうが得策だという結論に至った。

 

 それも掛け算方式で「既存×既存=新しいもの」という形を採用しようと思っている。

 

 しかし、ボクら二人は新宿のルノアールで無言のまま、固まっていた。

 

 間に雑談を挟んでも、新しいアイディアが出てこない。

 

 そして、たくさんの宿題を抱え、「先人たちが凄い」という思いを胸に帰宅しました。

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